◆◆◆ 2045 ★ かみ合わないアート論-3 ◆◆◆
インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送
(あとはいつでも見れますよん)
2014.7.13. 前述の来訪客との話のつづき。 女「教室の人たちは、ほら、ヒマつぶしじゃない。」 アタシは、それは、人によると思うと思ったが、言わなかった。 女「知り合いに見せても、みんな、いいわねとしか言わないし」 それは、仕方が無い。アタシだって、物凄いヘタな絵を見せられたら、いいですねとしか感想を述べない。それは、社交辞令というやつである。 アタシは、ミクシや、FBの人たちのことを思い浮かべ、自分の絵の足りないところを指摘してくれる人など、世の中にはいないのだと思った。 女「やはり、ホントのこと言ってくれる人がいないとね、」 この人は、何のために、自分の絵の足りなさを人に指摘されたいんだろう。しかも、先生にもアタシと同じことを助言されているのに、行動にも移さないのである。 オジャラ「持ってきてくれれば、いつでもボロクソに、感想を言いますよ。」 女「・・・・・」 彼女としても、それはそれで、覚悟がまだないらしい。 |
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彼女は、アタシのイラストをいくつか見る。 女「こういうのは、手で書いているんですか?」 オジャラ「そうですね。でも、イラストの仕事をするのであれば、それを、自分で印刷用のデータに加工できないと、仕事は取れないですよ。」 女「絵をパソコンで描いている人もいるんですか?」 オジャラ「そりゃあ、いますよ。アタシは手書き派ですが、CGもできますよ。」 女「パソコンで絵を描いていると、手で書いているよりも、力が不足しているような気がします。」 オジャラ「それは、絵によりますよね。パソコンで作られたCGだって、ゲームなんかに使われて、物凄い稼いでいる人もいますし、良い絵もありますよ。」 女「私は、引き込むものが、低いと思う」 の一点張り。 オジャラ「アタシは、イラストの会に入っていたことがあって、半分ぐらいは、パソコンで 絵を作っています。その人たちの絵を見たら、アナタの絵が、いかに足りないかを思い知ると思いますよ。」 女「そうなんですか?」 彼女は、デッサンにも通ったことはなく、ちゃんとしたイラストを見たこともないということになる。そんな人に、CGが手書きよりも、引き込む力が低いといわれたからといって、どうということはない。 |
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オジャラ「イラストっていうのはね、依頼主がいるんです。だからね、依頼主から、こういう絵を描いて欲しいと頼まれたときに、そういう絵を作れないと、仕事は取れませんよね。」
女「頼む人がいるんですね。」 この人は、たいして、働いたこともないんだとアタシは思った。 幸せな人である。 そうして、彼女は、ピカソの図録を見て、 女「こういう絵は、女の人が、外人だから描けるんですよね。こういう、凹凸の大きな顔というか。」 オジャラ「外国の人は、みんなこういう顔ですよ。たまたま近くにいた人を描いただけですよ。Wさんは、外国に行ったことありますか?」 女「サイパンとグアムぐらいです」 オジャラ、「私がヨーロッパに行ったときにね、みんな、アタシのことを、絶世の美女だっていうんです。アジアでもそう。アタシ、そのときに思ったんです。人間というのは、無いものが欲しいんだって。凹凸の大きい顔ばかり毎日見てると、のっぺりした顔がキレイに見えるし、黒い顔ばかり見れば、黄色い顔でも美人に見える。人間というのは、欲張りなんです。アタシは、日本にいたときには、自分が美人とは思ったことなかったですけど、そのときから、自分は美人だと思うことに決めました。つまりね、人間というのは、身近にないものを欲しがる傾向があるんです。 それを知れば、別段、顔の凹凸など気にならなくなりますよ。」 女は驚いていた。 外国での経験値も低いのである。 それなのに、日本人と外国人を比較して、自分たち(日本人)が劣っているような気になっているのだ。 |
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社会経験が低いことは、どうしようもないが、そういった、偏った価値観を絶対だと信じ、自分の正しさを中心に展開する会話というのは、実につまらない。 彼女に、芸術自由という話をするのを忘れたよな。 また近々に来るに違いない。 彼女は、誰かと絵の話がしたいのである。 自分は、絵のことが解っていると思い込んでいるからである。 もしくは、誰かに、もっと、ちゃんと、正しい道筋を示して欲しいと、求めているのかもしれない。 私は、芸大の公開講座に参加したときに、北郷先生が、芸術自由という話をしてくださったことを思い出した。 エルンスト・バルラッハの、空飛ぶ彫刻には驚いたという感想は、一致していた。 そう、ハっとさせ、あっと驚くような、何か、見た人をビックリさせるような新しさがないと、誰も、真から、良いといってくれたりはしないのである。 彼女の、「ありきたりの絵が一番難しい」という信念が間違っているとは思わないが、自由な感性や、その人にしか描けない画風というものが感じられなければ、画家にはなれないのである。 彼女と、外に出て、外に向かって流れている私の素描や書なんかの映像を一緒に見る。 オジャラ「この絵は、まだ下手糞だけど、アタシの作品っていうものは出てるでしょ。近所の人で、アタシの作品を見間違える人はいませんよ。 この絵がね、例えば、セザンヌとか、マティスの絵と並んでもね、負けてはいけないの。勝つのはムリにしてもね、それなりのオーラを出さないと、誰も絵に気づいてくれないでしょ。 そんでね、誰が見ても、アタシの絵だって判る絵にならないと、世界的な画家にはなれないのよ。」 彼女は、キョトンとして、言葉を失っていた。 北千住で有名な画家を目指していても仕方が無い。 どうせ目指すなら、世界的な画家。 日本で有名な画家でも、世界的な画家でも、目指す目標としては大差ない。 ところが、作る内容とか、活動の話は、随分と変わってくる。 どこを目指すのかによって、何をどうしなくてはいけないのかがハッキリとしてくるのである。 「楽しみのために絵を描くのか、売るために絵を描くのか、どちらなの?」 それによって、練習内容は違うということになる。オジャラ「とりあえず、デッサン頑張ってください。コピー用紙にボールペンで500枚作ってたら、また来てくださいねー。」 女「写真のような絵っていうのはどうなんですか?」 オジャラ「写真のような絵であれば、写真以上じゃないとね。写真と絵が並んで、クオリティーが同じなら、写真でイイわけでしょ。絵にしなくてはならないというのは、写真よりもいいときだけですよ。」 女「はぁ。そうですよね。写真以上でないとね」 彼女はおおいに納得し、帰っていった。 コピー用紙に500枚の絵を描いて戻ってきた人はいない。 |
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