◆◆◆ 2011 ★ 酒井抱一 ◆◆◆
インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送
(あとはいつでも見れますよん)
2014.6.7. テレビ番組の消化ちう。 酒井抱一の描いた、カキツバタ図屏風。 尾形光琳よりも100年ぐらい後の画家だそうだ。 光琳への尊敬は大きく、作品はどれも美しい。 何より、絵が上手い。 昔は、絵は模写を通して学ぶというのが普通なので、同じ絵を写すということへの罪悪は無いと思う。 今ほど、悪く言われないということである。 私も、クマガイセンセイの絵を見たので、何か、似たのを作らなければという衝動に駆られている。笑。 それぐらい、作品への強い尊敬というものは、作品に影響を受けないということもない。 |
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宗達のオリジナルの風神雷神、 ↓ 光琳 ↓ 抱一 という流れ。 名画は、模写によっても、世に知名度が普及されるという流れ。 ここは見逃せない。 抱一の風神雷神の話になれば、光琳、宗達という話が出てくるわけで、関係者は、この三人の関係を研究するという楽しみが出来る。 そういうことになる。 アタシは、有名作品風の絵で、集客するという手法は、画家として間違っていないと感じることは多い。 たとえば、ゴッホが、浮世絵そのままを、油彩にした話。 画家の才能という部分では、多いに名を落としているが、露出という意味では、日本人は、どうしても、関心を抱いてしまい、しかも、好感まで持つという実態は、否定することは出来ない。 |
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奥村土牛の桜の番組を見る。 「醍醐(三宝院の大紅しだれ桜)」 この、醍醐は、醍醐寺のこと。 豊臣秀吉が、大茶会を開いた有名な場所である。 贅を尽くして開いた「醍醐の花見」に集められた枝垂桜の子孫と伝わる。 樹齢は150年を越すらしい。 不思議な構図。 土牛は、小林古径の6歳年下。彼の絵に影響を受け、彼の死後は、輪郭線から離れた画風に変わる。 遠慮してたのかしらね。 師やセンセイがいないというのは、不安でもあるが、自由でもある。 かといって、絵が自分の絵にならないのであれば、それは、存在しないことと同じである。 |
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最近、日本画系の番組が多い。正確には、他のを先に見てしまうため、日本画系が残されているということかもしれない。 土牛や古径の作品を見れば、芸術自由という点において、物足りない気持ちになる。 それは、精神的な戦いなわけで、ヨイとか悪いという話ではない。アタシごときが、語るなという域である。 桜の絵は、輪郭線を使わず、何百回も塗り重ねているという技法が紹介されていて、それはそれで素晴らしい。 大切なことは、技法ではない。 山本容子センセイは、現実にはない、何かを一つ、絵に入れ込むようにしていると話されていたことを思い出す。 この前、ガッコの先生も、 実際に、猫の足が五本や六本あったら、違和感を感じるかもしれないけど、絵の中で、猫がピンクで、足が六本あったとしても、何の不思議も無いだろう。 と話されていた。 私は、このセンセイは、芸術自由の何たるかがわかっているんだと思った。 日本画家の人は、芸術自由について、語る人がいなかったのかと思わないわけにはゆかない。 否、現代の作家さんは、きっと解って作っていると信じたい。 たとえば、ムラカミタカシさんとかね。 |
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