◆◆◆ 1945 ★ 弁当ライフ ◆◆◆

インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送

(あとはいつでも見れますよん)

2014.1.14.

学校には電子レンジがないので、冷めないタイプのステンレスの弁当箱を使う。

今日は、飯を詰め過ぎて、午後はおなかが一杯だったよな。

スープ用の弁当箱と、飯用の二個を使う。

弁当箱を洗うスポンジや洗剤がないので、持参しようと思う。

給湯器もあるにはあるみたいだけど、ガス栓がついてないので、無いのと同じよね。

それはまあ、無くてもね、それほど弱くもない。水さえ出ればね。

教室と、工房の温度差が大きすぎてね、体調はまだよくならない。

そういえば、教室の書棚に、なぜか、故宮博物院の書の本があり、この本だけ、うきまくっているのだが

、アタシは、暇な時間に眺めることにしている。

世界で最も美しい書とされている、王義之の書であるからである。

アタシは、この書の写真を、何度もみかえしているが、どこが美しいのか全く分からないのである。

その点は現代芸術と同じよね。

イロイロな筆跡が一つの手紙の中に網羅されているという、テクニック的な話なのかとも思うんだけど、そうでもないみたい。

アタシは、そういう、どうでもいいけど、自分の中では納得のいっていない、この書の心の行きとどかない筆跡などを眺めながら、毎回、「へぇ、これが」

などと思うのが日課になっている。

以前、国立博物館の、書の至宝展を見たとき、「伝、菅原の道真」というのの書を見たことがあった。

当時の男性が、こんな女性じみた書を本当に書いたのかというのが素直な疑問である。

美しいといえば美しいが、一文字も読めないというこちらの勉強不足も恥ずかしさの極みである。

まあ、漢字の読めない女性宛てだったことを思えば、器用で女を口説くことに命を賭けているような男であれば、可能性はある。

いつの世にもスケコマシというジャンルはいるものである。彼らの勤勉さにも頭が下がる。

女にもてすぎても、面倒が広がるだけというのを学ぶのは、だいぶ金を使ってからというのもまた人生である。

そういえば、私の通う学校には、女性だけが参加する修得学科もあるのだが、あれはあれで大変らしいと、教官がポツリと話す。

そりゃ、そうだろう。

夫と、その話になる。

「女が集まると、どうしてモメるのかしらね。男の人の中で、ポツンと、女が学習する分には、もめたりしないのにね」

オット「社会経験値の違いだろう。女は自分のことだけ考えて生きていても、なんとなく生きていけるもんね」

オジャラ「社会経験値、どうして上がらないんだろうね」

という会話。

女は、主観的すぎて、男性のように客観的に生きることができている人は少ないように思える。

まあいいんだけどさ。幸せなら。

女同士の戦いというのは、自己顕示欲のぶつかり合いである。

学校や、カルチャースクールなどでは、先生に褒めてもらいたいという、思いの強さが、バトルの原因である場合が多い。

それは、自分を褒めて欲しいという、欲求に素直なだけである。褒められるというのは、自己愛の確認に他ならないのだが、他否定とセットである場合も多い。

以前にも登場したすみれちゃん。

絵のスクールには二個行っていて、どちらの会でも、不満を持っている。

センセイは、●●さんの方を良く見て、アタシの絵は直してくれない。

とか、こっちのクラスは、誰ちゃんと何ちゃんが仲よくて、アタシはつまらない。

とか、もう、子供に戻り切っているのである。年のせいか、同じ話を何度も繰り返す。

どうして、もっと、絵を良くしようとは思わないんだろう。アタシは、いつもそう感じながら、彼女が変わることもないのが現実。

褒める部分が何一つないのに、愛されたいという欲求が強いので、問題が起きるのである。

そのことがついてないと思うのだった。

おじゃら画廊

Established 1998 Rica's Bar WEB SITE & Since 2003 Atelier Ojara.
Copyright (C) All Rights Reserved by Rica Ojara.