◆◆◆ 1924 ★ 茶杓を作る話 ◆◆◆
インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送
(あとはいつでも見れますよん)
2013.12.8. 最近は、材料が手に入ったということもあって、よく茶杓を作っている。 この前漫画家のタマゴの嵐山君が来た時にも、アタシは茶杓を作っていた。 客人は、いつも、アタシが茶杓を曲げようという佳境に来るから困る。 嵐山「おじゃらさん、どうして、竹の皮を外側に曲げてるんですか?内側に曲げる方が、カンタンだと思うんですけど」 オジャラ「茶杓はね、皮が外って決まってるの。」 嵐山「どうしてですか?」 オジャラ「アタマがイカレてるのよ。こっちの方が、難しいでしょ。アナタになんか、一生、作れないわよ」 嵐山「ああ、アタマがイカレてるんですね。納得しました。」 そう。アタマがイカレている。 何故、竹の皮側にあえて曲げるのか。 精神の修業にしか思えない。 |
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オカモトタロウの、「俺は、いつも難しい道を敢えて選び、進む」と話していたけど、そんな感じなのかしらね。 どっちでもいい。 あんな簡単な造形の品、アタシに作れないはずがない。 という、ある種の思いこみからスタートしただけである。 ところが、思いのほか難しい。笑。 焦げるし、曲がりが難しいし。 というような話でね。 格調高くというのは一生ムリってことは理解できてきた。 なんちゃって茶杓なら、なんとかって感じで。 まあいいのよ。自分で飲むだけだからね。 大切なのは、作っている時間が、愉しい時間かどうかだけである。 売り物ということでもない。 ギャラリーの掃除をしていたら、昔作った茶杓がでてきた。 なんて下手くそなんだ。(正直使えません) ついでに、探していた、危険物のライセンスも発見。(同じ缶に入っていた) 大切なものを入れる缶なの。 免許の更新に行かないと。 |
昭和サロンのアルバイト・パート募集のポスター。 |
茶道の所作というのを、何かの展覧会で流れていたビデオで拝見したことがある。 黒山の人だかり。 その時に思ったのは、ムダの無い流れるような動きだなという所である。 茶釜の蓋をあけて、フタを蓋置きに置く。柄杓で湯をすくい、茶碗を温める。 湯を捨て、茶碗を袱紗で拭く。 袱紗は、瞬時に折りたたまれ、所定の場所に置く。 それから、茶壷の蓋を、やはり、フタ置きに置いて、茶杓で茶の粉取り出し茶碗に入れる。 それからの柄杓で湯を茶碗に入れて、茶筅で撹拌する。 そんな流れだったと思う。 そういう、一連の動きをつつがなく進めようとすると、フタを置いたり、あまり身動きをしない所に、イロイロな品をすでに配置しておく必要がある。 まあそんな風に思えた。 これが、作法という話にすり替わり、家元と全く同じ動きをするように、免状を持ったひとたちが、やっきになる。 という感じかなあ。習ったことないけど。あの、小学生たちに茶道を教えている、youtubeの映像は、クレイジーだった。 茶道オババが、体育館で、袱紗のたたみ方から、鉄瓶の蓋の置き方を怒鳴り散らす。 子供たちは震えあがりながら、ドキドキと茶を点てる所作を教えられていたように見えた。 ワビもサビも感じられないよ。 |
なんとなく芸術的な墨の皿 |
「へいげもの」で触れた利休の美意識は、茶道の自由さだったと思う。 茶会を催す。すなわち、来た人を驚かせる。 例えば、満開の朝顔の花を全部摘み取り、茶室に一凛だけ、朝顔を活ける。 というような趣向である。 こうすることにより、より朝顔の一凛の美しさが際立つ。という美意識である。 「相手を驚かせる趣向を考え、客人を迎える」という話は、現代芸術そのものだと思った。 根底は同じ場所にあるのか。 アタシが茶道に惹かれた理由は、実はここにある。 茶室という箱の中で、どんな新しい話をするのか。珍しい茶碗なのか、美しい掛け軸なのか。手製の簡素な竹の花入れに、庭の椿。 美しければ、それで構わない。 晩年の利休は、絢爛豪華の対極への挑戦でもあったと思う。 時勢的なものもあったし、政治利用されることにも、腹立たしいものはあっただろう。 本来の和の美しさを無視した、金の茶室にだって、相容れないながらも、人間の本質があったはずだし。 アナタは、アタシのギャラリーで、アタシの茶を飲めば、十分に楽しい時間となるはずだし、茶道の本質的な話は、もっと気軽なものでヨイのだということに、気付くと思う。 現代芸術と、茶道。 もし、その作品が、アナタの記憶に残り続けるという出来事だったとすれば、それこそが、現代芸術家が目指す場所でもある。 目指すべき場所はそんなには違わないのだと気付いた時、私は嬉しかった。 |
ストーブでは大根を下茹でちう。 |
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