◆◆◆ 1923 ★ 茶道の話-2 ◆◆◆

インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送

(あとはいつでも見れますよん)

2013.12.8.

私の場合、別段、深い考えがあって、茶を始めたわけではない。

茶道具一式を頂いたというのが最初。

抹茶を贈ってくださる方がいるという継続性。

陶芸の手慣らしに、茶碗を作ったりしたこと。

まあ、そういう必然の重なりあいで、茶と接する時間が長くなったという話である。

この前、昭和サロンのマスターがきたときに、高麗茶碗のレプリカと、楽茶碗のどちらで飲むかという質問をする。

マスターは、楽茶碗を選択。

当然の選択肢と思う。

抹茶茶碗というのは、体系的なもので、楽茶碗は、茶道に特化された品物だからである。

先般ご縁のあった、遠州窯の一つといわれているという赤膚焼きの茶碗しかり。

抹茶専用の道具なわけで、泡立ち、温度、申し分がないというのを体感。

特に、鉄瓶に沸いた湯を、50CCぐらいのレードル(柄杓のかわりに利用)で湯を汲む。

三回にわけて、少しずつ茶碗に差し入れ、一気にかき混ぜる。

んー。なんて美味いんだ。

という感激度。

アタシは、陶芸教室の方にも、茶碗を作るのであれば、茶を点てろという話をする。

そうしないと、自分の茶碗は、どうならなければならないかが解らないまま、似たのを作り続ける話になり、それは、結果がまったく違うという世界である。

どんな世界でもそうだけどね。

茶道というからには、道なのである。

道というからには、筋を通さなければならない。どんな筋かというのは、茶人それぞれである。

昭和サロンのアルバイト・パート募集のポスター。

現代の茶道はどうあるべきか。

日本文化というワリには、抹茶は浸透しない。

茶道を習っていたという人は、実は多い。

ほとんどが、金が続かないという理由から脱落。

茶道に、金は必要なのか?

まあ、着物やら、掛物(床の間に飾る掛け軸などのこと)やら、懐石料理の道具やら、茶会を自宅で開こうとすれば、人数分の器やら、吸い物椀やら、イロイロとウンチク入りを用意しなければならないと思っている人が多い。

ぶっちゃけ、初対面の人ばかりが集い、当たり障りのない話をし、和やかな時間を過ごすというのは難しい。

珍しい茶道具の話で、二時間も話せば、それはそれで、愉しいひと時という時間になる場合もある。

主の面白さというのは、金では買えないからね。

それが、掛け軸のウンチクを話したり、茶碗の由来だったり、菓子盆の作者の話になったりするわけなのよ。

本質的な話と実態を勘案すれば、利休が、茶会の主に「茶道具の自慢」をさせるために、茶道を確立したとは思えない。

資本主義の、拝金信者が中心の茶人たちが、価値もない茶碗を生徒に売りつけ、紋入りの袱紗を毎年高額で買わせている限りは、本質に戻ってくることもない。

ストーブで茶杓作成中

この茶碗、どうしたんだっけな。

売れたのかな?

メンコやウルトラマンカードなんかの収集と同じ世界。

珍しいものだから、見せびらかす。

ウルトラの父は、数が少ないから値段が高い。

みたいなね。

茶道の本質ではないような気がするが、マーケットが、そういう道楽の方々で成り立っているというのも事実である。

ビジネスならば、何でもいい。

本物も見たことないのに、高い器に手を出すから失敗するわけで、図録頼りの地方収集家というのにも驚くよね。

主に、その資金力に、、、、。

マーケットや、経済効果的には、今のままで何ら問題もないのである。

でもまあ、茶道は日本の文化なのだから、もっと、気軽に多くの人が親しんでいいんじゃないかなと思う。

道具や、袱紗のたたみ方や、茶を点てる順序ばかりが先に出て、茶を通して、大切な時間を過ごすという本質的な話が、置き去りになっている現実を、茶人たちは、もっと、深刻に受け止めるべきだと思う。

現代の茶道界の混沌を、利休が知ったら、怒りで血圧があがりすぎ、死んじゃうんじゃないかというぐらい、ヒドイ状態に陥っているとしか思えない。

ストーブでは大根を下茹でちう。

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