◆◆◆ 1846 ★ 岡倉天心の話-2 ◆◆◆

インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送

(あとはいつでも見れますよん)

2013.10.3.

「美術は精華なり」

岡倉天心の指針である。

日本の優れた美術を内外に紹介し、また、才能ある画家に、芸術とは何かを説き、新しい表現に挑戦させ続けた。

そういう仕事をした人である。

彼の教えは風変わりだったのだそうだ。

たとえば、名月を、月を描かずに絵を描けとか、そういった具合らしい。

★芸術とは、自然そのものの提示ではなく、自然を通しての暗示である。

アタシは、この教えに触れ、俳句のことを思い出した。

俳句とは、「直接的な表現を避け、その事象を短い言葉で表現すること。」

である。

5-7-5というリズムを中心としたものもあるが、もちろん、そればかりでもない。

特に、重要になるのは、瞬間的な表現、感情的な表現が句の中にあるのかどうかというのが、俳句の良しあしの評価の指針である。

徽宗皇帝の猫

徽宗皇帝の猫

アタシは、俳句に出会わなければ、こんなに早く、芸術とは何かが解る日は来なかったと思うと、何かに書いたと思う。(もちろん、完全に解ったということではない。)

日記だったかもしれない。

そう。

俳句は、私に、大きな部分で、さまざまなことを教えてくれた。

特に、俳句は、「俳」であるという言葉には学ばされた。

俳とは、俳優の俳。何かを演じるとか、おどけるという意味があるが、見る人を楽しませるという裏に隠れた意味もある。

そう、「芸術は、芸」なのである。芸人さんとは、人を楽しませるために、精進し続けるひとたちのことである。

であるから、私は、美術家と名乗らず、芸術家と名乗ることにした。

芸術表現というのは、文芸であっても、書であっても、絵画でも、造形でも、目指すべき場所は、たいして変わらない。

★新しい表現に挑戦し続けること、

★独自の世界を持つこと、

★何よりも自由であること、

★瞬間的な表現とか、感情的な表現が、絵に表れていること

今までは、こんなところを中心に、芸術性というものを見てきたつもりである。

当然に、そういう作品を作るという前提で、優れた作品を見て歩いているわけなだが。

徽宗皇帝の猫

天心いわく、歴史を勉強しないものは滅びる。ただ、歴史、伝統にしたがっているだけでもダメ。

それらを身につけたら、一歩前に出ろ。

一歩前に出た瞬間からそこは荒野。自分で道を作りながら進むというのが、彼の教えである。

彼が弟子たちに求めたものは、その画家ならではの独創性。

模倣は、それが自然の模倣であれ、自然の模倣であれ、自殺行為である。

個性とは、人間と自然の壮大なドラマの中で、常に独創的な役割を演ずることを悦びとする。

と彼は話している。

天心の解説をしていた、茨城大学教授の小泉晋弥先生は、

「精華」とは、国民の希望や憧れが形になったものと説明され、また、その意味は、

ごく一部の人たちにではなく、その時代に生きた人たちが、みんなで一緒に感じるもの。みんなが見たがっているものを、それを芸術家が出してゆくんだ」というヴィジョンを持っている。

と話されていた。

納得。

おじゃらの愛猫トの字

芸術性と、共感という、二つの対立したテーマの中、私は、それらを、どう捉えて進まなければならないのか、長い間答えを出せないでいたのである。

精華という天心の言葉は、ひとことで、そういった迷いを吹き飛ばしてくれた。

天心が心を動かされたという久世観音像。

美しいということばばかりでなく、有難い。

まあ、そういうことなのだろうと思う。

美術もそういう存在を目指せということだ。

伝統工芸展であったって、ありきたりな表現の繰り返しや模倣では、賞を取ったりはできない。かといって、用の美から離れてもいけないのだ。

そういう、自由と不自由さの共存。

という場所を目指さなくてはならない。

私なりには、

「精華」とは、そういう教えである。

長い間、中途半端な、モヤモヤとした感情が、天心の教えに触れ、やっと整理されたという気持ちになった。

本日、晴れやかなり。

おじゃらの愛猫スカルとスバルと赤い花瓶

おじゃら画廊

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