◆◆◆ 1821 ★ 川合玉堂の作品 ◆◆◆

インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送(あとはいつでも見れますよん)

2013.8.28.

へぇ、これが。

というのが、今までの感想。

山種で開かれていた玉堂展。

さすがの品格にひれ伏した。

レポーターの松井冬子さんも、「日本画というのは、品とか、精神とかいいますね。」

などと解説されています。

どちらも表れているということのよう。

初期の、技巧を駆使した、荘厳な日本画よりも、日本の原風景を描くシリーズの、冒頓とした感じのほうが、やはり、絵としては、玉堂の絵になっている。

ということなのだと思う。

ワタリウム美術館3/23撮影のおじゃらの巨大ポートレート

品良く、毅然と描くのでは、絵というのは、似てしまうのよ。

特に、風景なんかを描いた場合にはね。

人物というのは、特徴を出しやすいけどね。絵がうまくなればなるほど、写真のようになってきたり、個性が埋没したりする。

技巧におぼれれば、絵の面白さ、自由さに欠け、目の肥えた人には、物足りなくさえ感じるということになる。

そういったことを超えて、うっひょーというのが、今回の感想。

知らないということは恥ずかしい。

玉堂が、何故、ここまで有名で、高値で、どの人も持ちたがるのか。

紹介された作品のほとんどが重要文化財というこの格。誰でももらえるということではない。

という謎は解けたということになる。

私は、良いものを悪いと言ったりはしない。

ワタリウム美術館3/23撮影のおじゃらの巨大ポートレート

玉堂先生は、膨大なスケッチを、知人にあげていたという。

そうして、死ぬ間際に、家族に残した言葉として、「私は、好きな絵を描き続けることの人生で幸せだった。ただ、有名になりすぎ、多忙になり、多くの方に絵を差し上げることができなかったことが残念だ。」

というような言葉を残されている。

絵をあげていたんだ。

大きいぜ。

まあ、スケッチだからね。それは理解できる。アタシも、素描は大量にあるけど、ゴミみたいなものだ。

それらは、ゴミのような絵と呼ばれ、保存のため、ゴミ袋の中に入れられた素描は山積みとなり、部屋のあちらこちらに隠されている。

ので、その一枚を探すことは不可能。

リスがクルミやドングリを、木のウロや、あちらこちらに埋めて隠し、そのあと、長い間、隠したことを忘れてしまい、木々が発芽する感じと似ているわね。

あはは。

発芽する日は遠い。

ワタリウム美術館3/23撮影のおじゃらの巨大ポートレート

玉堂の絵の特徴は、風景画は、とてもよく練られていて、スケッチから写真のように、風景をリアルに起こしてゆくのとは対照的に、人物は、サラリとしたへたくそな絵であるところだと思う。

あまりにも下手な絵なので、

今まで、へぇ、これが。

という感想だったということになる。

評論家によれば、「どう見ても下手ですけどね、何かから解放されて、上手く描くことへのこだわりから抜け出たんでしょうね。」

という感想。

絵がうまくなると、下手に描くということそのものが挑戦である。

アタシのように、一貫して下手な場合には、絶望の淵に立っているのと同じなのである。

ワタリウム美術館3/23撮影のおじゃらの巨大ポートレート

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