◆◆◆ 157 ★ 落書き ◆◆◆
2004.8.8
|
展覧会用の書を書き終えて、墨とペンで、落書きをする。 結局、墨もペンも、使いにくくて頭に来てしまう。 シェーファーのカリグラフィー用のペンを取り出して、落書きを続ける。 苦行モード。 この作業は飽きる。 ミロの画集を出しては少し見て、才能の差というのはあるものだと思わされる。 どの絵だって、どうということがないのに、『ミロの絵だ』ということは、一目で識別できるのである。 |
スキャナーがA4しかないので、 絵が切れてしまうのである。 A3スキャナーが欲しいぜ。 |
私には、私の得意なモチーフというのがあって、『線』は以前と比較すると、大分安定してきている。 落書きを繰り返して、『ミロ独自のモチーフ』のような、『オジャラ独自のモチーフ』をいくつか作れるようになると、それらの組み合わせで、アタシらしい落書きが、いくらでも出来るようになるという仕組みである。 その、『アタシらしいモチーフ』というのをいくつ作れるのかが勝負ということになる。 大場印刷さんに頂いた、黄ばんだコートの上質紙(細長い)に、どんどんと落書きを繰り返す。 アタシは、恵まれている。 紙をタダで手に入れられるなんて、なんてツイているんだろう。 そうして、今度は、落書きを数えるという作業にアタマに来る。 描いた落書きをどう処分するのかという悩みもある。バリにいたときには燃やせて便利だった。 描く前から黄ばんでいるけどなあ。商品価値は描く前からゼロモード。 ピカソやミロは、一体落書き系のスケッチを、どうやって処分していたのだろうか? 処分などせずに、勝手に売れていったのだろうか?(巨匠のメモ程度の作品を売っている画廊が無いワケではない。) どちらにしたって、こんなゴミのような作品が売れるはずがない。 |
|
とりあえずいくらでも描くことができるし、絵は全く売れないのだから、それ以外の事を今考えても仕方がない。 描くのに行き詰まったときにでも、他のことを考えればいいということである。 絵が描けなくなる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。それはまだ解らない。 描けるウチは描き続けるというのが、創作者の王道だろう。 『ミロ』の本を書いた人の話によると、安定した落書きが作れるようになると、どんな絵を描いても失敗しなくなるのだそうだ。 アタシは、銅版画やリトグラフに、直接描画して作品を作るので、その下積みとして、どうしても、サラサラと絵を描けるようになる必要があるのである。 書や落書きを繰り返すと、絵は必ず上手くなる。という確信が、アタシにはある。 |
|
油絵を作って、乾かす間に銅版画や書や落書きをする。
油絵が乾いたら、また油絵に戻る。 同じ事を繰り返して、何日が過ぎる。そうやって、一年が過ぎた。 ときどき縫い物や編み物をして、気持ちを切り替える。 あれだよなあ。芸術活動というのは、全く個人的な活動だよなあ。仙人のような生活だぜ。 最近は、さすがに残りの預金が少なくなってきて、スケッチに行くお金を節約しなければならなくなってきた。 スケッチは、毎週参加すると一ヶ月8000円必要で、年間10万円もかかってしまうのだ。 スケッチに行かないだけで、10万円も節約できるのだ。この金額は、あとりえの一年間の光熱費と同額である。スケッチに行かなければ、もう一年ここで粘れるという計算となり、選択の余地がない。 既に膨大な数のスケッチが手元にあるので、それを小さい作品とか、ペン画や水墨画に描きかえるだけでも、絵の鍛錬にはなる。 人体は、かなりシッカリと脳裏に焼きついていて、昔のスケッチなどみなくても、ある程度の絵はサラサラ描けるようになりつつある。 でもまあ、スケッチを見ると、描いたモデルさんのことなんかを思い出すし、ポーズにもバリエーションができるんで、見ながらも描くと思う。 |
|
金をかけずに、雑草なんかをスケッチするという方法もある。
アタシは、風景画は本当に描けないのだが、風景を描く練習をするという、最後の案もまだ残されている。 日本では、人物を売るのは難しい。よほど上手くないとムリという域なのだ。(→神業的上手さという意味) 描きたくない絵(風景)を描いても仕方が無いのだが、作品の幅を広げる練習にはなると思う。 アタシの絵ときたら、まるでモディリアーニの絵のように、人物しか描かれていないのだ。 風景が少し描けるようになると、大作にチャレンジしたときに、背景に凝れて、作品が間延びしなくなる。 大作にチャレンジする日はまだ来ない。 力が足りないというのが明確なのである。 自分のモチーフ作りというのをまず先にしたい。 |
|
頂いた紙なんて、5000枚位あるけどなあ。(もっとあるかも。ダンボールに4箱もある。それは、銅版画の拭き取り用のもあって、全部がコート紙というワケでは無いのだが、最近イイ紙も混じっている。)
全部描いたら、多少絵もうまくなるだろうし、上手くなれば、もう少し仕事も来るかもしれない。 それまで、どう食いつなぐかという話だよねえ。 なんか、今日書いた話は、前にも書いたような気がする。 毎日単調な生活をしているから、他に書く事も無い。絵であれば、同じモチーフを何度描いても、何も言われないが、文章というのは、『同じ話ばっか書きやがって』という気になるから困る。 絵の完成度と比較すると、文字を書き写したり、文章や俳句という芸術は、他の人との差をつけづらい。 差が無いわけではないのだが、素人には甲乙をつけるのが微妙ということである。 文字で勝負している人は、本当に大変だと思わないワケにゆかない。 |
Established 1998 Rica's Bar WEB SITE & Since 2003 Atelier Ojara. |