◆◆◆ 156 ★ 掛け軸を作る ◆◆◆

2004.8.8

書道を習い始めてから6ヶ月が経つので、生徒さんによる展覧会をやるのだそうだ。

マジっすか?

そんでもって、その書をかける掛け軸なる品をどうするか、考えなければならなかった。

普通の人は、掛け軸にビニールがかかっていて、ポコっと作品を入れられる品を購入するみたいだった。

アタシの書はデカイので、自分で作ることにする。

最初は、バリ島の布で作ろうかと思ったのだが、押入れの中を探すと、辰爺の羽織が出てくる。

シルクの織物で、アンティーク状態。

裏地も張ってあるし。これにすっか。

(虫食いにシミアリだけど。)

羽織の袖を取り、背中の部分はそのまま利用して、四角く縫い合わせ、棒を差し込む輪を作る。

絹の音がとても心地よい。

書は、『夢』という文字に決定。

これは、初日に描いた作品。

名前を失敗してしまう。

この紙は1枚50円くらいするので、失敗したくないのよねー。

書道って金がかかるわぁ。

この字も、真ん中の『四』の中央がくっついてしまい失敗。

(注。何十枚か、たぶん百枚レベルで使い古しの半紙で練習してます。)

この前、画家のヤギ姉さまの、『新作家展』というのを上野に見に行った帰り、同じ場所で、毎日新聞社が主催の、小学生の書の展覧会が開かれていたので見に行く。(無料)

そこには、小学生の書の指導に当たる先生方の書というのも展示されていて、これは、とても勉強になった。

さすがにセンセイだけのことはある。

アタシは、『書』なるモノを初めて見たような気がした。

展覧会用の作品作り2日目。

展覧会に出す『書』を練習しながら、『書』について考える。

アタシの場合、俳句の書写を中心にしているので、文字が読めるように書けるというのを目指している。

それは、それである意味大切だ。

読めない書というのは、存在しないのと同じだからである。

それでも、普通の字というのは、それはそれで芸がない。

芸術なのであれば、芸も入っていなければならないぜ。

おおっ。まるで俳句みたいねぇ。

そのあと、放哉の俳句の書写を何枚かする。

机の上は、大量の書でイッパイに。

アタシは、書について考え続けた。

展覧会に出す『書』というのは、俳句の書写とは違う。

毎日新聞の審査員のセンセイ方の作品は、どれも個性的だった。

読める字も読めない字も、素晴らしかった。

書と、絵画制作の決定的な違いというのは、『文字を書く』か、『絵を描くか』という部分である。

文字を書くという作業というのは、芸術活動という点で、大きな制限がある。

『夢』という字であれば、それは、どの人が書いても、『夢』以外の何モノでもないからである。

なるほどぉ。

書家というのが、画家よりも(販売するのが)大変な理由はここにあるのか。

『大変』というのは、すなわち、『文字』を書くということに囚われているということなのである。

絵であれば、例えば、見ただけで『あの人の絵』というような作品を作れる画家も沢山いる。

マンガだってそう。顔とか、服とか、景色とか、そういうもの全て(もしくは一部であっても)作家を特定する作品を作り上げることが出来るのだ。

ところが、書だけで、『この書は、あの人が書いた書』という決定的な個性を出せる人というのは、そんなにいないはずなのだ。(出せる人は、プロってことっす。)

画材(墨)だって、半紙だって、そんなに差が無いモノを使っているわけだし。

その中で、差をつけるという創作活動は、全く嫌なキモチにさせられる。

そうして、小学生にだって、書は書けるわけで、文字を書くという作業の間口の広さを感じないわけにはゆかなかった。

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